海外での研究

マウス成熟視覚皮質における経験依存的可塑性とエピジェネティクス

(1)成熟脳の可塑性は臨界期における可塑性とどう違うか?

  哺乳類の感覚皮質回路の発達には、生後のある時期に異常な感覚経験に対して非常な脆弱性をもつごく短い期間が存在することが知られています。例えば視覚系では、この時期に起こるわずか数時間から数日の片眼の視覚剥奪が、両眼の偏った神経活動をひき起こすことにより、視覚皮質の剥奪眼に対する反応性を失わせることが示されています。この短い「臨界期」を過ぎると視覚皮質は片眼の視覚剥奪に対してある種の抵抗性を獲得すると考えられていますが、現実には臨界期を過ぎても、より長期間の片眼剥奪を行うことによって視覚皮質の反応の眼優位性を変化させることができることは以前からサルやネコなどで示されていました(例えばLeVay et al 1980, Daw et al., 1992)。臨界期後に起こるこの可塑性は、皮質回路が確立した後の成熟脳の機能がどれだけ新しい感覚経験に適応できるかを知る上で 非常に興味深いものですが、この可塑性は単に臨界期と同じメカニズムが臨界期よりも低い効率で働くことで起こるのか、それとも少なくとも部分的には異なる回路メカニズムによるものかはわかっていませんでした。そこで私たちはこの成熟脳における眼優位可塑性が臨界期における可塑性とどのように異なる特徴をもつかを、神経活動に伴う代謝変化を画像化する高解像度内因性シグナル光学イメージングを用いて研究しました(Sato and Stryker., J. Neurosci., 2008)。
 はじめに4日間の短い片眼剥奪による眼優位性の変化を光学イメージングで観察すると、 臨界期前(生後16-18日)と臨界期後(12週令)のマウスでは統計的に有為な変化を生じ ませんでしたが、臨界期(生後24-29日)のマウスでは非剥奪眼側への著しい眼優位性の変化が見られたことから、以前から知られるように、短期の片眼剥奪は臨界期だけでのみ有 為な眼優位可塑性をひき起こすことを確認しました。この臨界期可塑性の時間経過をさらに 詳しく調べると、片眼剥奪の長さを延長しても4日間の片眼剥奪でほぼ飽和に近い可塑性が得られ、その変化は主に剥奪眼に対する反応の減弱によるものが明らかになりました。次に 臨界期後の成熟マウスにおける長期の片眼遮蔽の効果を調べると、7日間の片眼遮蔽は臨界 期より小さいながらも有為な眼優位性の変化をひき起こすこと、およびこの可塑性は臨界期可塑性とは異なり、主に非剥奪眼に対する反応の増強によりもたらされることが明らか になりました。次に反対側と同側の2つの視覚入力に対する可塑性の大きさの違いを調べ ると、臨界期では強い反対側入力を剥奪しても弱い同側入力を剥奪しても、眼優位性の変化 を標準化すると同じ大きさの可塑性が得られるのに対し、成体期の可塑性では強い反対側を剥奪したときにのみ有為な眼優位可塑性が得られ、弱い同側眼を剥奪したときはほとんど可塑性が見られなかったことから、成体期可塑性の大きさは剥奪する入力の大きさに依 存することが示されました。 また両眼の視覚を同時に剥奪する両眼剥奪は視覚入力の不均衡を生じないため臨界期では眼優位性の変化をひき起こさないことが知られていますが、成熟マウスでは驚くべきことにこの両眼遮蔽によっても反対側の片眼遮蔽に似た弱い眼優位性の変化が見られたことから、この成体期可塑性は古典的意味での視覚入力の競合によるものではなく、皮質回路の神経活動の全体的レベルの変化によってひき起こされることが示唆されました。最後にこの成体期可塑性のメカニズムを薬理学的に解析すると、NMDA型グルタミン酸受容体の拮抗薬の投与により7日間の片眼遮蔽による可塑性が阻害されたことから臨界期可塑性と同様にこの可塑性はNMDA受容体に依存したメカニズムによるものであることが示されました。 以上の結果は、短い片眼剥奪が剥奪眼に対する反応を急速に減弱させることで著しい眼優位変化をひき起こす臨界期可塑性は、発達段階にある皮質回路の精 緻化における経験依存的な回路再編成に重要な役割を果たすのに対して、長い片眼剥奪が非剥奪眼に対する反応をゆっくりと増強させることで眼優位変化をひき起こす成体期可塑性は、成熟神経回路で起こる長期の神経活動レベルの変化に対して、その機能が正常に保たれ るように補償する結果として起こることを示唆します。 


(2)ゲノムに埋め込まれた遺伝情報はどのようにして可塑的な脳を作り出すか?ー経験依存的皮質可塑性におけるゲノム刷り込み効果

 哺乳類のゲノムにおけるほとんどの遺伝子は父方および母方から受け継いだ両方の染色体から発現しますが、ごく一部の遺伝子のみがそれらの染色体の一方から発現することが知られています。このようないわゆる「ゲノム刷り込み」された遺伝子の、脳の発達と進化における意義はよくわかっていません。ヒトにおいてこうしたゲノム刷り込み遺伝子の一つであるE3ユビキチンリガーゼUbe3a遺伝子の母性欠損は、精神遅滞、学習障害、異常脳波を 伴うけいれんや運動障害など様々な症状を示すアンジェルマン症候群と呼ばれる神経発達障害をひき起こすことが知られています、私たちはマウスの視覚系をモデルに用いて、この遺伝子の脳の発達と可塑性における役割を研究しました(Sato and Stryker, PNAS, 2010)。
 野生型マウスの臨界期視覚皮質では6層全ての細胞にUbe3aタンパク質の発現が見られたにも関わらず、Ube3a母性欠損マウスの視覚皮質ではUbe3aの発現が見られなかったことから、Ube3aは臨界期の視覚皮質において母性染色体からの刷り込み発現が起こっていることが明らかになりました。また視覚皮質においてUbe3aはCaMKII陽性の興奮性 細胞とGAD67陽性の抑制性細胞の両方に発現していました。臨界期における4日間の片眼剥奪がひき起こす眼優位可塑性を調べると、Ube3a父性欠損マウスでは正常な可塑性が見られたのに対し、母性欠損マウスではほとんど眼優位性の変化が見られなかったことから、これらのマウスでは経験依存的な皮質回路の再編成が障害されていることが示されました。同一個体の慢性メージングで14日間の長期片眼剥奪の効果を調べると、母性欠損マウスでも野生型の4日間の片眼剥奪がひき起こすのと同程度の有為な眼優位可塑性がみられましたが、その可塑性は14日間の長期剥奪が野生型でひき起こす可塑性に比べて軽度なものにとどまりました。次にUbe3a母性欠損マウスの成体期可塑性を調べると、7日間の片眼剥奪により野生型と同程度の眼優位可塑性がひき起こされましたが、野生型でみられる剥奪後の両眼に対する反応の増強がみられなかったことから、Ube3a母性欠損マウスの視覚皮質は正常な成熟が起こらないことが示唆されました。次にUbe3aの生後初期の神経回路形成における役割を調べるためにUbe3a母性欠損マウスの視覚皮質の網膜地図を調べると、これらの投射地図は正常に形成されていました。またUbe3a母性欠損マウスの開眼 は生後約14-15日の野生型と同じタイミングで起こること、および開眼後から臨界期開始までの視力の発達は正常に起こることが示されました。これらの結果はUbe3aの神経回路発達における役割が臨界期以降の経験依存的な可塑性に特異的であることを示しています。こうした可塑性の障害のメカニズムを探るためにUbe3a母性欠損マウスの臨界期視覚皮質におけるGAD65/67およびCaMKII、NMDA型グルタミン酸受容体NR2A/2Bの発現量を調べたところ野生型と変化がありませんでしたが、解剖学的に第5層の錐体細胞の棘突起密度を測定すると、基底樹状突起上の棘突起密度が有為に減少していることがわかりました。以上のことから母性染色体から発現するUbe3aタンパク質は生後発達期の視覚皮質の成熟した可塑性能力のために必要であることが明らかとなりました。